未来の撮影手法について その1

最近チラホラと目にしやすくなってきたLEDスクリーンを使った撮影手法。
今はまだ色々な面で使用するには壁がありそうだが近い未来,5〜6年後には普通に選択肢の一つにまでなると思う。

今の壁はコスト、背景とのリアルな合致性、カメラの動きの制限、などは挙げられると思う。

コストはもちろん利用が広がれば他のそれらと同じように下がってこなれてくるだろう。

背景とのリアルな合致性は背景とカメラの同期の精度、照明の同期の精度、グラフィック自体の精度などの技術の進歩で年々それが合成だとはわからなくなると思う。

ではカメラの動きの制限はどうだろう。今のところ一番のネックではないかと思う。

カメラの色味やIrisの制御は今も動機が取れていると聞いているし、動きも横移動であれば同期ができているとも聞いている。縦移動もできるのかな<少しは。

しかし、実際の外ロケと同じような機動性は未だ疑問だ。これを解消するにはいくつかの問題をクリアにする必要があるだろう。

一つは、正確なカメラ位置の把握。
一つは、クレーンのXYZ軸の同期。

が挙げられるだろう。これを解決するには工学的アプローチと機械学習的アプローチが必要だと考える。

ということで今、開発室ではカメラ位置を瞬時に把握し数値に置き換えるシステムを開発中。同時に同期を取るためのAIも開発中だ。

システムができれば新たな撮影手法が確率でき、今潜んでいる問題のクリアにできるはずだ。それが楽しみである。

40にして惑わず。ー現代版解釈1『論語・為政』ー

孔子の言葉に、

子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。

と言うものがある。

意味としては一般的に、私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった。と言うことだが、私見では今の時代の寿命と孔子の時代の寿命では大きな隔たりがあるため、少し修正したい。

私曰く、我20代にして学に志す、40にして立つ、50にして惑わず、60にして天命を知る、70にして耳順う、80にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。

どうだろうか。

10代では決して勉強が好きではなかった。必要に迫られガシガシ勉強したのは大学の時、20代に入ってからだった。その後も紆余曲折を経て本当の意味で40にして経験や勉学を通じて人として立てたように思う。その後も迷い惑い続け50が近くなりやっと迷うことなく安堵な精神状態になった。達観できるようになった。

未だ54歳であり、60は経験していないのでなんとも言い難いがきっと己の天命や使命を知るようになり70でそれを人々と共に実践できるようになるのだと思う。

そして80ともなれば水のように生きれらるのだと思う。それがこれからの人生100年時代の生き方ではないかと思う。あくまで私見だが。

なので、今迷い焦っている人たちは、大丈夫! 必ず安心できるようになる。そのために一所懸命,今を励み、迷い、学び、惑い、進んで行って欲しい。そのように過ごしていけば必ず50を越えたら安泰な心の日々がやってくる。清濁あわせて全ては良い経験になる。

20年前に見た未来 その2 「家庭用ロボット開発」

今でこそ色々とラインナップが出てきた家庭用ロボットの類。ネットワークカメラたち。

当時はまだまだ先の技術だと思われていた。しかし、よく考えると当時の技術でも色々なものを応用すればできるんじゃないか?と考え出してプロトタイプを作ってみた。

それがこの2台。一台はロボットというよりは今でいうネットワークカメラ機能を主体とした小型ロボット。ペットの見守りや子供の見守りの目的で開発した。これは基本動かない。親しみやすくするためにロボットの形を模した携帯電話網を利用したネットワークカメラだった。

もう一台はそれよりも進化させた、完全二足歩行のロボットを携帯電話を利用することで制御するロボット。友達ロボット、または介護ロボットとして開発したものだった。

両方とも某メーカーにて契約したが商品化まで漕ぎ着けなかったのは残念だが、今は代わりに色々と出てきているのでそれはそれで楽しい。自分が欲しかったから開発したのが原点だから結果オーライだ。

次は今で言うタッチパネルやタッチペンみたいなものを考えて開発していた、という話を書こうと思う。

ー続く

滅びない産業とは

太古の昔から存在し、今なおあり続けている産業の代表格といえば、娯楽産業。いわゆる今で言うエンターテイメント産業。


意外かと思うかもしれないが、よく考えて欲しい、この産業は人間にしかわからず、しかしこれがなくなるとほぼ生きている目的や価値までも無くなってしまいかねない。

例えば、この日本に限って言っても、太古の昔、人は田植えをするにも、狩にいくにもその方策を願って歌い踊った。神という存在すらスターのような物だったと思う。

卑弥呼は踊り出政を治めた。人々はその歌や踊りに年貢を払った。寺や神社で聞く説法や神話にお供物や寄付を払った。



今のエンターテイメント産業の構造となんら変わらないではないか。

人間から娯楽をとってしまったら、どのくらいの期間生きていられるだろう。ほんの数年で自ら命を立ってしまうのは想像に容易い。

だから、この業界に従事するあらゆる人よ、心配なかれ、何代にも渡り働いていける。AIもこの領域は不得手なのだから。

何せ、楽しむのは人のみ、楽しんだ人から創造は生まれ、また人を楽しませていく。

娯楽産業、人の心に働きかける物全てをそう呼ぶ、のだと私は思う。

この業界は未来永劫なくならない。

マニアな映像機材の今昔話 その2

当時のアメリカ、とりわけハリウッドは撮影技術においての一つの過渡期を迎えていたと思う。

カメラは長い間一強と言われていたPanavisionに対抗するArriflexが出てきて、照明機材もタングステンからHMIにどんどん変わっていった。

クレーンなどの大きな機材もメイドインアメリカなMatthewsに対抗できうるメーカーがオランダから虎視眈々とアメリカ市場を狙っていた。Egripmentだ。

メカニカルドリーにもその潮流は及んでいた。強気のリースでしか自社製品を扱わせないのはPanavisionのお箱ではなかった。ドリーメーカーのChapmanもその仕組みを使って全国展開をしていた。

しかしその市場にもヨーロッパの波は押し寄せていた。ドイツのPanther社だ。Chapmanの油圧式ドリーに対して当時の先端技術であるコンピューターを搭載した空気圧式ドリーだ。

そう簡単にハリウッドの技術者たちは新しいものに移行はしなかった。それこそ大きいもの、重いもの、頑丈なもの、シンプルなものが正義のアメリカ出会ったがゆえにヨーロッパ勢は苦戦した。

しかし、ヨーロッパに意外によく似た構造を持つ日本はこれに大変興味を持った。

そのあたりから欧米混戦のまま日本の撮影技術は大きく転換して行くことになる。

ー続く

起業してから早30数年 その1

厳密に言うと起業は1988年だから33年だが、社長になったのは帰国してからだから27〜8年か、会社のサイトに書いてあるのとは少し違うけどその辺りはうろ覚えだ。なにせその頃は必死だったから”いつ”とかを考えている暇さえなかった。

そんなことを思い出すほどの余裕はずっと後になってからだった。まあとにかくなぜ創業年と社長就任の年が違うのかと言うとその理由は当時の私を取り巻く環境がそうだったからだ。

当時、私はアメリカに留学していた。起業は留学中に行ったからだった。


留学中ということは学生であり当然ビサは学生ビサ。つまり就労してしまうと不法滞在になってしまい下手をすれば強制送還になってしまう。

なので、私は起業するにあたり知り合いの弁護士に幾度となく相談をし、合法的に起業し、そして働くことのできるその仕組みを模索した。

アメリカでの起業の仕方や、なぜ起業したのかについては今度どこかでまた詳しく書きたいと思うので今回は割愛する。

とにかくその仕組みとはこうだった。

ー続く

これからの君達へ

カメラ周りを覚える、照明周りを覚える、音声周りを覚える、すると特機がどう動けばより良いのかが見えてくる。

「〜周りを覚える」、は机上の勉強だけでは全く足りない。

やはり現場で見て触って動いて見なければ本質がわからない。

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日々の失敗は本当にいい勉強になっているはずだ。次に生かしてこそ。

そしてリアルな現場をどんどん踏んでいってほしい。

20年前に見た未来 その1「一億総ディレクター時代」

これらが具現化すればどんなにやりたいことが現実化するだろうと思って突っ走っていたあの頃、それらが今は本当に実現している。なんて素晴らしいことだろう。その当時、ではどんなことを考えていたのか、具現化させようとしていたのか、それを少し思い出してみようと思った。

一つ目。

今はYouTubeや他の動画サイトとして現実化しているが当時は何一つなかった。なかったから作ろうと思った、当時のNTTドコモと組んで。

それがこのブロードバンドダッシュ放送局構想。

当時付けたキャッチフレーズは「一億総ディレクター時代の到来」だった。まだ、インフラがISDNからやっとADSLに変わり始めた頃、ストレスない動画の配信など夢のまた夢だった。

それでもこのシステムであればなんとか具現化できると進めていた、総務省まで巻き込んで。しかし具現化はできなかった。あれから20年。様々な選択肢すらあるほどの動画サイトができ、一億総ディレクター時代は叶った。これは楽しい。

他にも、今は当たり前の、ネットワークカメラやロボット、VR空間やホームセキュリティシステム、スマートホン、クラウドコンピューティング、果てはそれらに必要なUSB電源まで考えて提案していた。それはおいおいまた書こうと思う。

ー続く

メッセージの送り方を模索してきた

2019年末から今日まで続いているこのコロナ。本当に未曾有の大災害だと思う。

ここまで長く続くとこれが日常だと錯覚さえしてしまう。人とのコミニケーションも満足に取れなくなって久しいから、何かいい方法はないものかとずっと考えていた。

去年の暮れには、普段は忘年会で言葉を述べるのだがそれができないということで、ビデオを撮りそれを社内に向けて配信した。

しかしそれを毎回毎回やるわけにはいかない、でもなんらかかの方法で皆にメッセージを送り続けたい、ならばブログはどうだろうか。そんな思うから書こうと思い立った。

しかし、いかんせんタイプが苦手で長文は難しい。脚本を書く時でさえ今までは手書きで最初書き、のちにタイプするという二度手間をしてきていた。それでは、例えば毎日なんらかのメッセージを書くのは難しい。やはりそれにはタッチタピングが必須だと思った。

そのタッチタイピングで打つということがある程度できるようになってきたので、書き始めることにした。これで近々公表できるのではないかと今まさに準備をしている。

いくつか書きまとめたらブログをやっていることを公表しようと思っている。それまでは書くトピックも右往左往することだろう。

マニアな映像機材の今昔話 その1

さて、今日は少し映像機材について語ろうか。

私がこの業界、とりわけ、映像機材に関わってからはや三十数年がたった。その間には目まぐるしい進歩があった。ここで今、少し当時を振り返ってみたい。

一番最初の頃、まだ私が少年で、何もわからず近所を駆け回っていたそんな頃、1960年から70年、そして80年代初頭のこと、映画のカメラはパナビジョン。テレビのはNHKから池上通信。そんな時代だった。それ以外は話にもならない、とまで言われていたらしい。

特殊撮影機材も大掛かりのものだった。今のように折り畳んだり引っ込めたりなどできる代物はなく、トラックの荷台に首長竜かと思われるようにドカンと積まれたいわゆる大クレーンや中クレーンと言う馬鹿でかく重い撮影クレーンだった。時折遊びに行った日活撮影所にはそんな機材がたくさんあったと記憶している。(探してみたが流石に昔のこの頃のクレーンの写真はなかった。)

そして、しかもこれらは型から生成しなければならない正真正銘のメイドインジャパンのオリジナル。当時の三菱重工(今は昔、戦車などを作っていた会社)に製作を依頼し、1億とも2億とも言われるくらいバカ高い代金を支払っていたそうだ。

当然、ロケで使うとなるととんでも無い労力を要したろう。なので、ほとんどは撮影所のスタジオでの使用がメインとなっていたと聞いた。

アメリカとて同じようなものだったらしい。日本よりもさらに馬鹿でかいクレーンをトラックの荷台にそれこそ設置して、使う、という荒技だったらしい。今で言うカメラカーの化け物と思って差し支えないだろう。

そんな中、1980年代のヨーロッパは進んでいた。なんでだろうか。狭さは日本並み、映画ビジネスはアメリカ並み。そんな風土があったからか、とても機能的な機材を開発、販売し始めていた。

画期的だったのは、カメラで言えばアリフレックス(ドイツ)。特殊機材で言えば、パンサー(ドイツ)やイグリップメント(オランダ)。

何が画期的だったかというと、私に知る限りアリフレックスは当時は珍しい売り切り商法をとっていた。プロ向けのカメラはレンタルかリースで、買えるということはなかった時代に彼らは販売した。販売して得た資金を開発に回すことで当時のあらゆる先端技術を取り入れたカメラをリリースしていった。

パンサーやイグリップメントも同じく最新技術を導入していたがそれがけではなく、当時はなかった、いわゆる軽量化やコンパクト性を主軸にした機材をバンバン世に出していった。分解し折り畳めるクレーン、油圧に対する空気圧のコンピュータ制御のドリーなどがそれだった。

これは画期的だった。

私が業界に関わりだした1980年代後半になると、ある意味保守的な閉鎖的なアメリカハリウッドの中では、小さい、軽すぎて頼りない、など揶揄されて市場になかなか浸透していかなかった。しかし日本は違った。

飛びついた。

いや、飛びつきたかったが、いかんせん、今のようにインターネットなど一般にはまだない時代。導入するにはツテなど誰もどこにもなかった。となると、頼るのはいわゆる国内の商社ということになる。

商社から買うのは高い。今ならわかる。しかし当時はそれすらわからない。何せ現地のオリジナル価格がわからないのだから、高いのか安いのかすらわからない始末だった。

そんな時代に私は日本から遥か離れたアメリカにいた。

〜つづく